鎌倉ハム
村井商会について

鎌倉ハムのはじまり

“鎌倉ハム”は明治7年(1874年)イギリス人ウイリアム・カーチスが神奈川県鎌倉郡柏尾村(現在の横浜市戸塚区柏尾町)で外国居留民のためにハムを作ったのが始まりと云われています。
その後、日本人がハムの製造をするようになりましたが、当時のハム製造メーカーは専売ではなく、むしろ積極的にハムの製造技術を開放していた為、生産者が神奈川県下に次々と生まれ、ハムの生産量が増え、日本中に広まるようになりました。
ハムについては、“鎌倉(郡)で作られたハム”という通称で呼ばれていたため、そのまま“鎌倉のハム”となり、現在の呼称“鎌倉ハム”と呼ばれるようになりました。(諸説あり)

晩年期のウイリアム・カーチス

当時のハムは腿肉のハムで、今で謂うところの“骨付きハム”が主体でありました。何日も漬込み樽の中に寝かせ、手返しをして、熟成させたものを燻製にかけました。
それまでは丘に横穴を掘ったり、庭先に大きな穴を深く掘ってハム造りをしていましたが、その後冷蔵の技術が進歩するに連れて、ハムが全国に普及するようになりました。
また、ハム・ソーセージメーカーが加工品を発売したときには“鎌倉ハム”のラベルを貼って販売したため、“鎌倉ハム”の名前はハム・ソーセージの販売と共に津々浦々に知られるところとなりました。

当時の製法が今に息づく伝承骨付ハム

鎌倉ハム村井商会の歴史

当社の創立は昭和4年1月16日、村井菊次郎の個人商店として出発しました。
村井菊次郎の義祖父 小手五左衛門(千葉県武射田[むさた]の出身)はこのハムの加工にひどく興味をもち、なんとかして日本人の手で作ってみたいと考え、加工原料納入の際に折にふれその秘伝と称するものの習得に努力を重ねました。
当時のハムは豚肉を骨付きのまま洞穴の冷所に塩漬にして保管し、数ヶ月の歳月を要してハムを誕生させるという現在の加工設備から考えると想像もつかない製造方法がとられていました。

明治後期の南京町(現在の横浜中華街)
当社の前身武田屋(写真右)

ハム製造の技術は小手五左衛門から息子の小手増次郎へと受継がれ、名門食肉卸問屋の屋号「武田屋」を用い、「武田屋の鎌倉ハム」として商品化されていき、需要が増すにつれて、ハム加工に本腰を入れるべく横浜元町の裏手の山に洞穴を掘り此処を拠点として、ホテル・高級レストラン等に製品を納入しました。
武田屋の鎌倉ハムは原料品質が良いことからも評判を呼び、遠くシンガポールまでも輸出するようになりましたが、大正12年、軌道に乗り出した時、折り悪しく関東大震災が発生し、元町の冷蔵庫は一瞬にして陥没の憂き目にあいましたが、直ちに復興にとりかかり、以前にも増した盛業の豚肉卸問屋を築き上げました。

村井菊次郎は、千葉県の出身であるところからこの武田屋に入職し、義兄辻本信千代(元鳥清畜産工業(株))共々加工技術の習得に努めました。戦後武田屋三代目の子息が長ずるに及び、前掲辻本は関西に進出して鳥清畜産を興し、村井は高座豚の飼育と加工までの一貫工場を目指して昭和4年横浜市保土ヶ谷区川辺町に工場を建設。
昭和30年には、日本水産株式会社と業務提携をし、以来畜肉加工品の受注、船舶用食料及び畜肉加工品の原料供給等、緊密な取引を行って参りました。

昭和30年代の当社の商品

その後昭和34年には株式会社に改組し昭和46年に将来の事業発展を期し、本社並びに工場を現在の横浜市瀬谷区卸本町に新設の上、営業を開始いたしました。
総合的な食肉を扱う食肉卸売会社として業容を拡張するとともに、”鎌倉ハム”の伝統を受け継ぐメーカーとして、伝統技術の保持と良質な食肉の扱い者として原材料を見極め、製品に生かすことができる特質を発揮して、”鎌倉ハム”の”発祥の誇り”をいまに守り続けています。
また、オーガニック(有機)ビーフやナチュラルビーフをはじめ、”安全・安心”な商材にも取り組み、ミナト横浜に根付く”進取の気風”に溢れる食品の創造・開発を推し進め、皆様にご提供しています。

創業者 村井 菊次郎

当社創業者村井菊次郎は、名門”武田屋”(慶応3年(1867年)に横浜に食肉業としてその居を構え、横浜の歴史ある食肉業というよりも日本の食肉業界の基礎を造ったと言われる)から名家の血統を引き継ぎ、分家独立しました。
武田屋の初代小手五左衛門、並びにその子息は食肉業界の先駆者としての功績は言うに及ばず、武田屋から独立した村井菊次郎は第五武田屋を経て株式会社鎌倉ハム村井商会を創業し、横浜に於いての地位はもとより、日本食肉業界の礎の一人として数々の業績を成し得ました。

当社創業者 村井 菊次郎

村井菊次郎の食肉業界における功績は絶大なるものがあり、地元横浜における食肉卸売業務の荷受機関(現横浜食肉市場株式会社)の創立に参画し、初代代表取締役に就任しました。
また、日本の食肉業界の将来を見据え、特に戦後は日本人の体躯向上に一役を担うべく国産物の食肉は無論のこと、輸入食肉についてもその普及に努め、横浜の食肉団体をはじめ、日本の食肉団体の要職を歴任しました。
そして、食肉業界の発展のみならず、地域商業発展に寄与し、その功績と努力が認められ国及び団体から叙勲並びに各種の賞を受賞しました。